見沼たんぼに関わりのある人物

徳川家康(とくがわいえやす)

徳川家康の肖像画
徳川家康の肖像画
「三河武士のやかた家康館」蔵

戦国時代後期~江戸時代初期(1543年~1616年)。
江戸幕府の初代征夷大将軍せいいたいしょうぐんです。
関ヶ原の戦い後、天下を掌握しょうあくし、江戸幕府を開きました。
江戸の街づくりを始め、当時江戸に水害をもたらせていた利根川東遷事業 とねがわとうせんじぎょう 荒川西遷事業あらかわせいせんじぎょうなど、治水事業を行いました。
また、治水事業と共に、沼地をたんぼに造り変えて新田開発し、幕府の財政基盤を築きました。

伊奈忠治(いなただはる)

伊奈忠治の銅像
伊奈忠治の銅像
水戸市教育委員会提供

安土桃山時代~江戸時代初期(1592年~1653年)。
伊奈忠次いなただつぐの子で、幕府の命により、利根川・荒川の改修事業や数多くの新田開発を手がけ、関東郡代として幕府直轄地の統治を行いました。
徳川家康とくがわいえやす に命を受け、寛永6年(1629年)に八丁堤はっちょうづつみを築き見沼溜井みぬまためいを完成させ、この地における新たな灌漑かんがい用水源を確保しました。
伊奈一族は、家康の関東入国とともに忠次が代官頭だいかんがしらになり、忠治ただはるからは関東軍代として、12代の忠尊ただたかまで、足立郡赤山(川口市)に陣屋を気付き、幕府直轄地を支配しました。

徳川吉宗(とくがわよしむね)

徳川吉宗の銅像宗
徳川吉宗の銅像
和歌山県提供

江戸時代中期(1684年~1751年)。
江戸幕府八代将軍です。
徳川家康とくがわいえやす のひ孫に当たります。
破綻はたん しかけていた幕府の財政を享保の改革により再建しました。
その財政改革のための年貢増徴の手段として、新田開発を奨励し、井沢弥惣兵衛為永いざわやそべえためながに多くの溜井の新田開発を命じました。
そのうちのひとつが見沼溜井みぬまためいであり、この時に開発されたのが見沼たんぼです。
年貢増徴と倹約などによりこの改革は一定の成果をあげ、江戸時代の三大改革の一つといわれます。
米相場の安定に苦心したことから、「米将軍」の名も持ちます。

井沢弥惣兵衛為永(いざわやそべえためなが)

井沢弥惣兵衛為永の銅像
井沢弥惣兵衛為永の銅像

江戸時代中期(?~1738年)。治水家。
元禄3年(1690年)に紀州藩主徳川光貞に登用され、以後、綱教、頼職、吉宗、宗直の5代の藩主に仕え、土木事業を行いました。
吉宗が将軍職に就いた際に、その才能をかわれて江戸に呼ばれ、財政再建のために見沼新田・見沼代用水 開削かいさくを含む様々な干拓・灌漑かんがい事業を次々と行い、新田開発に貢献しました。
井沢弥惣兵衛いざわやそべえの見沼開発は伊奈氏の方法(関東流)とは異なり、既存の沼を廃して新たに用水路を開削かいさくし、用水と排水を分離するものでした。この方法は、一般的に「紀州流」と称されています。

潮田資忠(うしおだすけただ)

潮田資忠の墓
潮田資忠の墓

戦国時代後期~安土桃山時代(?~1590年)。
大宮区にあった寿能城じゅのうじょうの初代城主。通説では岩槻城主の太田資正(三楽斎)の4男とされています。
寿能城じゅのうじょうは、後北条氏に敵対していた資正すけまさが、岩槻城の支城として1560年、資忠すけただに築かせたものです。
その後、豊臣秀吉とよとみひでよしによる1590年の小田原攻めの際、岩槻城とともに寿能城じゅのうじょうは落城しました。 わずか30年の城でした。
資忠すけただの墓(物見台跡)は、寿能公園内にあります。

見性院(けんしょういん)

見性院の墓
見性院の墓

戦戦国時代後期~江戸時代(1545年~1622年)。
武田信玄たけだしんげんの次女で、穴山梅雪あなやまのぶただの妻でしたが、夫の死後、徳川家康とくがわいえやすの知遇を得て緑区大牧村を領地として与えられました。
元和8年(1622年)に没して現さいたま市緑区にある清泰寺せいたいじに葬られました。
見性院けんしょういん が養育した2代将軍秀忠の子、幸松丸(後の会津23万石の藩主保科肥後守正之)は3代将軍家光を補佐し、幕政で活躍しました。