見沼代用水

見沼代用水の導水

伊奈一族 による 荒川、利根川の治水と見沼溜井の造成

江戸時代初期、利根川と荒川は現在の越谷付近で合流しており、 氾濫はんらん を繰り返していました。この両川を引き離し、その跡を一大水田地帯にする大土木事業が行われました。

利根川は文禄2年(1594)から60年かけて、流れを少しずつ東に移していく工事が行われました。
これを利根川東遷とねがわとうせん と言います。この工事により、それまで東京湾に流れ込んでいた利根川は、銚子で太平洋に注ぐようになりました。

荒川は寛永6年(1629)、熊谷の久下で元荒川を締め切り、流れを西に移し入間川・隅田川を通じて江戸湾に注ぐ流路に変えました。これを荒川西遷あらかわせいせんといいます。

利根川東遷(とねがわとうせん)と荒川西遷(あらかわせいせん)利根川東遷・荒川西遷

これらの工事によって大河川が遠のいた跡の池沼地帯では、耕地を広げるために池沼の水を排水する 落川おとしがわや農業用水を貯めておく溜井ためいがいくつも造成されました。

八丁堤が作られる前・八丁堤が作られた後

これらの大土木事業を行ったのは、 伊奈備前守忠次 いなびぜんのかみただつぐ を始めとする伊奈一族です。忠次の次男半十郎 忠治 ただはる は荒川を付け替えた同年に、現在のさいたま市東部に広がっていた見沼の東岸と西岸が最も近づく附島(緑区)と木曽呂(川口市)の間に約8町の長さから「 八丁堤 はっちょうづつみ 」と呼ばれる堤を築き、見沼へ流れ込む水を貯留しました。これが、「 見沼溜井 みぬまためい 」です。

井沢弥惣兵衛為永いざわやそべえためながによる見沼代用水造成

享保の改革による新田開発と見沼代用水

見沼溜井 みぬまためい から水を引く「見沼用水」のお陰で周辺の新田開発が進みました。しかし次第に 見沼溜井 みぬまためい だけでは水が不足するようになりました。

その後享保12年(1727年)、 徳川吉宗 とくがわよしむね の命を受けた 井沢弥惣兵衛為永 いざわやそべえためなが が、新たに利根川から用水を引き、見沼溜井は干拓して新田開発し、排水路として中悪水路(現芝川)を掘削する工事を行いました。見沼たんぼの誕生です。

利根川から引かれた水は、見沼に代わる用水なので「見沼代用水」と呼ばれました。見沼代用水は、取水口の利根川から見沼まで全長60km。そこからかつての見沼用水につなげましたから、末端は現在の東京都足立区まで、84.5kmにも及びました。

見沼代用水の重要構造物

見沼代用水は、利根川から見沼たんぼまで多くの水路や道路を横断しなければなりません。そのため、川の下に水路をくぐらせる 伏越 ふせこし )が 53基、川の 上に水路を渡す 掛渡井 かけとい )が 4基、関枠(取水口)は大小合わせて164基、主要な橋は(石橋・土橋合わせて)90ヵ所も設置されました。
とくに元荒川 をくぐらせた 伏越 ふせこし 、綾瀬川の上を渡した 掛渡井 かけとい は、重要構造物として知られています。

伏越(ふせこし)
川底より下に木造の水路を作り、
水をくぐらせて流した。

伏越(ふせこし)の概念図

掛渡井 ( かけとい )
水路の上に橋を架け渡し、
水を通した。

掛渡井 ( かけとい )の概念図

これらの工事には総労働人数90万人、その賃金15,000両、構造物の費用5,000両という巨費が投じられ、着工後6ヵ月という短い工期で完成させていま す。

こうして見沼に始まる 見沼溜井 みぬまためい は約1,200町歩(1町歩は3,000坪)の新田に替わり、毎年5,000石もの年貢米を生産する実りの土地に変貌したのです。

参考:第4回世界水フォーラムにご出席された皇太子殿下の基調講演(宮内庁ホームページ)

見沼代用水による灌漑のしくみ

見沼代用水は、利根川から取水し、綾瀬川を越えた直後に台地の縁に沿って東西2本に分流します。西側の台地に沿って掘削された 見沼代用水西縁 みぬまだいようすいにしべり (全長約22km)と、東側の台地に沿って掘削された 見沼代用水東縁 みぬまだいようすいひがしべり (全長約16km)です。 見沼代用水は干拓して開発した水田に水を入れたのち、低地を流れる芝川に排水する仕組みをとりました。
この工事により見沼新田だけでなく、その周囲も含む、多くの村に用水を供給することができるようになりました。

見沼代用水による灌漑のしくみ